年賀状を出してもよろしいという期間が始まったそうですが、葉書を手に入れる事すらしていません。
働いていると、いろんな職場に行って、いろんな人と知り合って、通さなければいけない義理がどんどん出来て、となって行くのが普通なんじゃないかなと思うのですが、今のところ年賀状の宛先はほとんど増えていません。
ずっと変わらず、ああ、やんなきゃいけないな、でも時間かかるな、もうちょっと後じゃダメかな、とずるずる引きずって、大晦日以降の一日だけで片付ける(つまり、それだけの量しか書かない)のが続いています。
むかし、父親宛に来る年賀状の多さに感嘆してると、大人になればこんなもんだと、当然のように言われました。
そんな「大人」には、なろうともしていない、んですかね、僕は。
今日は、ちょっと興味を引かれた技術的な話を。
ネット接続の下り線を地上波デジタルテレビ電波で。研究会発足(日刊工業新聞・一日経ったらサイトに記事が無くなってました)
考えてる相手が移動体に限られているみたいなのが気になります。つまり、上り線は携帯回線。個人の所有する移動体通信に今のところ魅力を見出せない僕には、あんまり愉快な話題では。
まあ、それはいいとして、この話で一番問題なのは、放送局までどうやってネットの回線を引っ張り込むのか、です。いくら電波にメガオーダーのデータを乗っけられると言っても、そこまでが64kだったりしたら何の意味もない。全国の放送局に5Mbpsのインターネット接続環境を整備するとしたら、大変な話です。テレビ・ラジオの番組回線を使って、どうにかしようという魂胆なのでしょうか。
やっと帰って参りました。
前回、「一週間程度、更新をお休み」と書いておいたのですが、今さらながら、こういう 適当に幅を持たせた 書き方をしていた自分に感謝しています。
いろいろ予定外のことがありましたが、まず申し上げておかなくてはならないのが、「喪中につき」になってしまったことです。
心配していた年賀状が、何の前触れもなく吹っ飛んで行きました。
しかし「喪中につき」になると、正月・元日・元旦に普段やっているようなことを、どこまで自粛しなければいけないんでしょう?
とりあえず年賀状は、やめます。
「おめでとう」という言葉は、あんま、よろしくなさそうです。「年賀」というのも。
でも「本年もよろしく」ぐらい、言ったって良いような気がします。喪中につき の葉書には「新年のご挨拶をご遠慮申し上げ」てな書き方をしますが、別にそれくらいは、死んだ人だって目くじら立てないと思うんですが。
初詣ってのは、どうなんですか?
やっても良いものなんでしょうか?
初日の出をおがむのは?
凧を揚げるのは? 雑煮を食うのは?
ま、こんな下らないことを考えられるのも、祖母が大往生だったからです。
行年86歳。大正昭和平成と通り抜け。本人も「もう十分生きた!」と言いたかったのでは。
葬式
あんなもん、やるだけ無駄だ。
とか言ったら、やっぱり、非常識とか不人情とか、攻撃されちゃうんでしょうか。
「葬式は、残された人のためにやるんだ」とかいう話を、どこかで読んだことがあります。死者を弔うのは勿論だが、悲しみを癒し、最後の別れを行うために、葬儀と名のつく儀式を行うんだと。
でもですね、何の意味があるんだか分からない壇を前にして、何言ってるんだか分からない坊さんの唸り声を聞いてて、癒されます?
儀式のための形式にカネを使うことばっかり考えてて、最後のお別れなんて出来ます?
今、大抵の人がやってる葬式って、形だけ整えて安心してるんでしょ? 何十万・何百万のカネをかけて、意味も分からずに一通りのものを頼んで揃えて。あくまで、義務的に、事務的に。
“喪主”と名のつく人(大抵は、集まってくる人の中で誰よりも悲しんでいるハズの人)には、故人のことを考える余裕なんてありません。あれをしなきゃいけない、これもしなきゃいけない。どっかの企業から、口先だけの悔やみが入る。うるさい親戚は、なんだかんだと口だけ出してくる。形式をなぞることばかりに気を取られてヘトヘトです。肝腎の「安らかに」の気持ちはどっかへ行っちゃってます。
本気で「お別れ」「見送り」「弔い」をしてますか? とりあえず形式が整っているから、そのつもりになっているだけなんじゃないですか?
実は、先週は沖縄にいました。
あんまり天気に恵まれなかったような気もするんですが、それはそれ。あったかいから許す。
ろくに予定も立てていなかったにしては、綺麗な所、楽しい所、しみじみと良い所、に行けたんじゃないかと思います。
ついては、きょう写真屋さんに出したフィルムが仕上がってくるのが来年になるみたいなので、そしたら写真も添えて少し書きたいと思います(一人旅でないので、衝動旅行記のコーナーに入れないつもりです)。
それにしても、おんなじ日本でどうしてこうも違うんですかね。
寒いし、雪積もってるし、道凍ってるし。
これはこれでまた、風情はあるけど、不便も強いる。
こんな土地に一番初めに「住み着こう」と決めた人は、えらい!
一日ぽけっとしていました。本当は、家の中のことにしろ、今度受ける試験の勉強にしろ、色々やることはあるはずなのです。
でも、休みボケのせいか、ついつい、ぽけっと時間を過ごしてしまいます。
仕事人として、体のペースが戻るには、しばらくかかりそうです(昨日は勤務だったし、大晦日から元日にかけても勤務が入っているので、そんな悠長なことでは困るのですが)。
そのぽけっとした中で「銀曜日のおとぎばなし」という漫画を読んでました。
萩岩睦美(はぎいわ むつみ)さん作。1983年から84年にかけて雑誌連載されたとのこと。
連載当時のこと、ひいては、この作家さんのほかの作品についても何も知りませんが、本屋で文庫本を見かけて、ふらっと買って来ていました。
舞台はイギリス。深い森と、大都会ロンドン。
主人公のポー(Poe)は、小人の女の子。ふとしたことから、ある日、森にやってきたスコットという人間の青年と知り合います。小人の世界と人間の世界。様々な出来事に出会う二人ですが、いつでも二人にはやさしさがあります。そして、そのやさしさで、色々な人を助けることになります。
小人や妖精が出てくるお話だからというので、ひとこと お子様向け と片付けるのは、ものすごくもったいない。主人公はあまりに純真・純粋だし、ある意味、綺麗な、綺麗すぎるお話、ですが、そのお話を読んだ後で、素直に心を暖かく出来るのって、大事なことだと思うんです(自分にそれが出来ていないような気がして、じれったさの余り、こんなことを書いています)。
人は、すぐ「現実は……」と言いたがります。それは、その通りです。現実は厳しい。現実は味気ない。でも、だからといって、「お話」を軽んじたり、それに文句をつけたりするのは、あまりに、寂しいじゃないですか。
さて、コンビニに牛乳でも買いに行くとするか。