2000年(平成12年)10月7日 土曜日 午後
「美術展を見に行こう」
こんなことを思ったのは、初めてです。しかも、山を越えて一日がかりで行かなければならない町の美術館へ。
きっかけは、長年の友人のウェブサイトの掲示板でした。そこに、今回の企画に参加されたご本人が紹介を書いておられたのです。
その中に、こうありました。
――文章を書くことになりました――
はてねと、首を傾げたのです。僕の頭では、どうしても、美術館と小説が一緒になることが出来なかったからです。
なにか、あたらしいことを始める美術展であることは分かる。でもどうやって、小説が入り込んでくるのか。
本が置いてあるのか。
しかし、どんなに短い小説でも、読むのにはそれなりの時間がかかります。
絵と、どうやって並び立たせるのか……
わいて来る疑問に答えるには、これはもう、実際に見てくるしかないだろうと、決心がつきました。
僕は、美術や文学のことなんて、ちっとも分かっていません。歴史のことも、今のことも。「面白い」「綺麗」、それ以上の感想が述べられたためしもありません。
そんなヤツが見ることに、それほどの価値があるとも思えませんが、やってみようと。
それともうひとつ。
東北で開催されることが、触発の大いなる原動力になりました。
東北での暮らしも、7年になります。これだけの年が経つと、いくら出身がここではないといっても、愛着が出てきます。
ご承知のとおり、東北は、目立たない土地柄です。東京・名古屋・大阪・福岡の並びに比べて、どうしても元気のなさが先に立ちます。気候のせいなのか、言葉のせいなのか。
その東北で開催される催しが紹介されたのです。しかも、もっと交通の便がいい所はいくらもあるのに、気仙沼で! 嬉しいと同時に、絶対に行かなければ、と、変に力んでしまいました。これを、東北に住む僕が無視するような冷たいことは出来ね。
だから、出かけることにしました。これがもし、東京や大阪だったら、行っていなかったかも知れません。
宮城県立リアス・アーク美術館。
リアスの海に浮かぶ方舟、という意味でしょうか。小高い丘の上に、銀色の建物が建っています。
その一室が、今回の会場でした。
佐藤健吾エリオ(美術家)、高橋利哉(詩人)、まなべゆきこ(シナリオ作家)。3名の作家がそれぞれ、絵画、詩、小説という手法を用いた表現のコラボレーションを行います。
(美術館入り口横の看板より)
恥ずかしながら、失礼ながら、お三方とも、初めての名前です。いささか申し訳ない気持ちもありましたが、逆に、それぞれの方に対する先入観というもの無しに鑑賞できたのかなという気もしています。
入って行くと、まず、大きな絵が、並んでいました。
風景。どこのでしょう。風景画を見ると、「どこ?」と思う癖があります。そんなこと、本当はどうだっていいはずなのに。
全体を静かに包んでいるような、優しい色です。色使いに目を奪われて、大きさのことや、構図のこと、描かれたもののことに、あまり思いが行きませんでした(正直な所、はっきり形を覚えているのは、川に架かる橋のシルエットだけだったりします)。
「絵画と言葉」の展覧会で、いきなり絵画だけに出迎えられたわけで、少し、おやと思いました。
先へ進みます。
絵の中に、人が出てきました。
同時に、絵の外に、言葉が出てきました。
この佐藤健吾エリオさんは、このところ、絵と詩を一緒にかくことも多いそうです。これは、おそらく本人が書いた言葉なのだろうと思いました。
言葉の中身は、はっきりと捉えることが出来ませんでした。
あっちへふわり、こっちへぽとり。そしていきなり消えてしまい、また突然あらわれる。詩になると言葉はどうしてもそうなりますが、後をついていくのは大変です。
そして、僕はいつも、ついていくのを諦めてしまいます。今度もまたそうでした。ちょっと距離をおいて見ているだけ。言葉の動きは見えますが、話している声は聞こえない。
そうやって言葉を見た後で、絵のほうに目を移します。言葉の方についていくのは諦めたので、絵との繋がりもまた、はっきりと掴むことは出来ません。
絵の中の人の、今いる場所が不思議。後ろのほうに、不思議。そんなことを思ってからまた言葉の方に帰っても、やっぱり不思議は不思議のまま。言葉にも、ついていけないまま。
でも、絵と一つの世界に居ることは出来る。
それが、心地よかった。なんだか、おかしな物言いですが。よかったな、と思ったのは、本当です。
ここで、建物の壁に、眼を向けてみました。
この美術館のこの部屋、鉄の骨組みみたいなのが、橙色を塗られて見えていたり、無骨な金網で壁が覆われていたり。ひどく、無機質な感じがしました。
そんな中に絵が置かれています。
ところが、なるべく、その無機質には眼が向かないように考えられていたみたいで、絵を見ている間は気になりませんでした。
そして、無機質な建物の内側と、柔らかく漂っているような絵と言葉が、奇妙に調和しているような。そんな気がしました。
さて、
並んでいる絵の真中に、奥へ行く通路が作ってあります。
今までとは一転した、狭い空間。両側に、これも今までとは一変した、小さな絵が沢山見えます。
それらの絵に辿り着くか着かないうちに、右手の部屋が目に入りました。引っ張られるように、そちらへ入って行きました。
そこが、小説と絵の部屋。
いよいよ本格的に、絵と言葉が並び始めました。
来る前に僕が抱いていた最大の疑問も、この部屋に入った途端に氷解して行ったのでした。
同じ大きさ、同じ形、の二つのカンバスが並べてあります。何組も、何組も。
右に小説、左に絵画。
で、小説のほうは、縦書きで、右から左へ。ですから、自然、文章を読んでから絵に進む、という恰好になります。僕もそうなりました。
小説は「カノン」という題名の話。そのなかから、ひとつかみずつ、カンバスに収まるぶんだけ、文章が持ってきてあります。
つまり、話が全て書いてあるわけではありません。ほんとうに、なんとなく、ですが、筋を追うことは出来ます。逆に、それだけしか出来ない、とも言えてしまいます。
“奇病”というのがなんなのか。どうして、ふたりの名前がカタカナだったのか。
事情を把握できない僕は、そのあたりの細かいことは気にせずに、読んで行ってしまいました。
命の果てという影があるのに切羽詰ったところがなく、ゆったりと歩いているかのような言葉に、酔っていました。
そして、読んで行くと、その都度、絵に当たります。
文章を読んで頭に浮かんだ風景と、絵の中の風景とは、あまりにも違った空間にいます。
すでにお察しの通り、その絵たちは、小説の挿絵ではありません。おそらく、その絵たちだけを並べると、また、別の展覧会が出来ているでしょう。
しかし、文章と並んでいることで、その絵たちの中に、それまでになかった息吹が、生まれています。
その「息吹」がなんなのか。自分で書いておきながら、はっきりと言葉にすることは出来ないんです。
お互いを引き立たせるでもない、お互いを補うわけでもない、
全く他人のような顔をしてそこに立っていながら、でも、相手を意識せずにはいられない。そんな風に、僕には見えました。
ひょっとしたら、お互い片想いをしていたりして? じれったいですね。
それと、絵の中には、登場人物がいません。登場人物がいないと小説は成り立たない。でも、絵のほうは、静かに、自分を自分にしています。そのあたりも、じれったさを感じる一因だったかも知れません。
部屋の中央に、椅子が置いてあります。どこの美術館でも見られるような、ひと休みのための椅子です。背もたれもなく、ただ、台があるだけ。八人ぐらいが、ひとかたまりに一緒に座れるようになっています。
そこに腰掛けてみました。四方の壁をぐるっと巡っている文章と絵が、どんなに見えるか、試してみたくなったのです。
当然、先ほどに比べ、距離が遠くなります。はっきり見えていたものが、はっきり見えなくなり、その代わりに、全体が印象的に見えてきます。
書いていませんでしたが、文章のほうは、青っぽい文字で、カンバスに書かれています。何かの都合で、その文字が濃くなったり薄くなったりしている所があります。
距離を置いて見ていると、その濃淡が、不思議な模様のようになってきます。
ここにおいて、文字はその意味を失いました。はっきりと読めない。だから、それらは、模様になり、絵になります。
初めて、隣にある絵と会話が交わせているような、そんな雰囲気です。
僕は勝手に思っていたのですが、絵たちには、文字の色と呼応するような、蒼の空気がありました。
ひとしきり眺めた後、部屋を出て、通路を奥へ進みます。
先ほど書いた通り、両側に、小さな絵が沢山あります。絵本を一ページずつ開いて並べたように、言葉と絵が一組になって、それが沢山あります。
次から次へ、わいてくる言葉の泉、絵の泉。正直、感嘆していました。どこからやって来るのだろう、と。
ここで不思議に思っていたのは、絵が分かれていること。縦に二つや、横に二つや。
そして、奥まで行くと、最後の部屋があります。
ここでは、「詩人」の作品が、絵のお相手です。
いきなり、どかんと、一行だけの作品がありました。なんという力強さ。
そして、それを受け止める絵の柔らかさ。
この部屋での絵と言葉は、さっきの部屋に比べ、近い世界に居るようでした。宮沢賢治を引用したりしながら、言葉は、様々な事物を語って進みます。どことなく、その言葉の問いかけに絵が答えているような。
さっきの部屋でやったのと同じように、近付いて見たり、遠ざかって見たり、立って見たり、坐って見たり、いろいろ試してみました。絵と言葉は、やっぱり、並んで立っていました。でも、今度は、お互いの心のうちを分かり合っているように見えました。
部屋を出て、辿ってきた道を逆に戻ります。眼の端に、今まで見たものが引っかかります。
絵の外に言葉が出て来始めたところ、その隅に、また椅子があります。最後にそこに坐って、ぼんやりと遠くにかかっている絵を見ながら、しばらくの間、思い出していました。
「絵と言葉の会話は、聞き取れたか?」
中にいたのは、ちょうど一時間でした。
眠りから覚めたような、不思議な感じがしていました。
建物の外へ出ると、夕闇が迫っていました。遠くの気仙沼の街並みや、空や、周りの景色が、絵の中と同じような、蒼い色に染まって見えました。
なんだか、よく分からない文章になってしまいました。
何が言いたい? ほんと、何が言いたいのやら。読み返してみて、自分でも、分からなくなってます。
作者の方々の意図などお構いなしに、感じるままに見ていたので、かなり歪めて受け止めている部分があろうと思います。いや、「受け止め」られたかすら、怪しいもんです。
美術館の出口の所に記帳をするノートが置いてあって、誰か何か書いていないだろうかと見てみたら、一つだけ、「絵と言葉の融合に感心した」みたいなことを書いておられた方がいました。
反論するわけではないのですが、僕には、絵と言葉が「融合」しているようには、どうしても感じられませんでした。あくまで、絵は絵で、言葉は言葉で、それぞれが相手を見ながらも、別々に振る舞っているようでした。
それは、もしかしたら、つくり手の意図に反する受け取りかただったかも知れません。でも、それらの振る舞いを、静かに楽しめたのは確かです。
ひとことで言うと、
いいものたちと、であった
のです。お世辞でも、おだてでもなく。正直に。